飛田尚彦について

1977年富山県生まれ
元全日本フィールドホッケー代表、日本人初海外プロホッケー選手
株式会社トップトップ カンパニー代表取締役

プロフィール

大学時代は全国No.1の強豪校、天理大学のキャプテンを務める。大学在学中に男子フィールドホッケーの日本代表選手として選ばれ、以降10年間日本代表として活動。

21歳以下のワールドカップ(イングランド)での得点王といった実績を上げ、日本人男子で初の海外プロホッケー選手となる。

ベルギーの強豪プロチーム「ロイヤルアントワープホッケークラブ」にて1年目からレギューラーとして活躍。4連続ハットトリック、シーズン21得点など、主要メンバーとして活躍。

世界最高峰のホッケーリーグ「EHL(Euro Hockey League)」の第一回大会でプレーした経験も持つ。

ベルギーではプロ選手として活躍する一方で、コーチとしての素質も認められ、クラブのジュニアチームのヘッドコーチとして、各カテゴリーリーグでの優勝や上位リーグへの昇格なども果たす。そして、ベルギー代表16歳以下チームのコーチも務めた。

プロ選手活動を終えたあと、日本に戻り、2010年にTobTop(トブトップ)株式会社を創業し、スポーツ用具の輸入販売を主とするビジネスを始める。

その後、ホッケーコーチング事業を新たに加え、監督(指導者)をコーチングでサポートするスタイルで、20回もの全国優勝に導くことに貢献。

2017年から、東京オリンピックを目指す女子日本代表ホッケーチームのコーチ兼通訳に就く。

同年の2017年からは、本格的に、認知科学を基礎とした最先端のコーチング理論を習得し、それと自身がトップレベルのスポーツチームで確立した監督・リーダー向けの組織パフォーマンス理論を組み合わせて、ビジネス組織においても結果が出る理論とメソッドを開発し、企業経営者へのコーチングを始める。

今までにコーチングを行ってきたクライアントは、グループやマンツーマンで1,000人以上に対しての実績を有する。

経営者とマンツーマンで、個人の強みをベースに生かした、成果を出し続けるパフォーマンス向上のコーチングを得意とする。

略歴

1996年 富山県立石動高等学校  卒業
2000年 天理大学国際文化学部英米学科 卒業
2001年 オーストラリアホッケー留学(西オーストラリア州代表選手)
2006年 筑波大学大学院修士課程体育研究科コーチ学専攻 修了
2007年 ベルギーホッケーリーグ参戦(プロ選手)
​2010年 TobTop(トブトップ株式会社)設立
2019年 株式会社TOPTOP COMPANY(トップトップ カンパニー)に社名変更

1996年
富山県立石動高等学校  卒業

2000年
天理大学国際文化学部英米学科 卒業

2001年
オーストラリアホッケー留学(西オーストラリア州代表選手)

2006年
筑波大学大学院修士課程体育研究科コーチ学専攻 修了

2007年
ベルギーホッケーリーグ参戦(プロ選手)

​2010年
TobTop(トブトップ株式会社)設立

2019年
株式会社TOPTOP COMPANY(トップトップ カンパニー)に社名変更

エピソード

頂点を味わった男の過去

父は高校の体育教師、母は小学校の教師という教育者の家系にて生まれる。

父の遺伝からか、もともと体格にも恵まれ、運動神経にも自信があった。

6つ上の兄はゲームが大好きで、いつも兄がゲームをする姿を後ろから眺めていた。

2人で朝早起きして熱中していた時期もある。

特にはまったのはスーパーマリオブラザーズやドラゴンクエスト。

 

保育園時代(左:本人/右:兄)

小学校1年生

両親が共働きだったこともあり、幼少期はおばあちゃんっ子として育ち、4歳の時には保育園に行っていなかった。

甘えん坊な性格で、いつも母親の仕事の帰りを家の玄関で待っていた。

友達とは空き地で遊んでいることが多かった。

運動神経は抜群だったものの、野球で高いフライを取るのは苦手だという一面もあった。

 

生まれ育った富山県小矢部市の石動(いするぎ)は日本の中で「ホッケーの町」と言われるぐらいホッケーが盛んだった。

仲の良かった友人に一緒にホッケーをやろうと誘われ、小学校5年生の時にホッケーを始める。

その後チームのキャプテンとなり、全国大会4位という成績を納める。

普段は大人しいものの、練習や試合になると別人のようになり、チームメイトを厳しく叱咤していた。

中学校では全国大会に2回出場し、3年生の時にはキャプテンとしてチームを全国3位にまで導いた。

ある時、練習中の事故で額を陥没骨折し、入院していたところ、気がついたら身長180cmにまで伸びていた。

運動会でも応援団長を努めるなど、学校内でも目立った存在だった。

高校は全国大会の常連校である石動高校へと進学し、国体3位の成績を納める。
(当時は副キャプテン)

中学校時代

20歳で日本代表入りを果たす

大学も名門校である天理大学にホッケーでの推薦入学。

国際文化学部の英米学科を選んだのは、将来的に海外でプレーしたいという目標があったからだった。

1年生からレギュラーを獲得し、センターフォワードとして活躍していたが、途中で入った元オーストラリア代表選手だったオーストラリア人コーチにより才能を見いだされ、ミッドフィルダーに転向する。

天理大学時代

大学1年生(18歳)の時、21歳以下の日本代表メンバーにも選ばれたが、当初は自分が中心ではなく、レギュラーでもなかったが、どうすれば監督から評価を得られるか徹底的に考え、練習中は一切手を抜かず、練習後も個人練習を重ね、見事レギュラーの座を獲得。

そして、21歳以下のワールドカップでは得点王になった。

また、2001年23歳の時、天理大学時代のオーストラリア人コーチから西オーストラリア州代表チームでプレーしないかと誘われて、オーストラリア最高峰のホッケーリーグに日本人男子として初めて参戦。

ミッドフィルダーでレギュラーとして活躍し、リーグ優勝に貢献した。

挫折

ホッケーでは日本代表選手にまで登り詰め、順風満帆のように見えた。栄光を味わった大学を卒業し、社会人として教員になるも、何か物足りない気がしていた・・・

お世話になった天理大学の嘱託職員になるも、3ヶ月で退職することに。

これまではスポーツの世界でただ上を目指していれば良かったけれど、「果たして今の仕事に自分の未来はあるのだろうか?」という気持が湧いてきていた。

あれこれ思い悩んでいる間に、気がついたら自律神経失調症になり、体重は5Kgも減ってしまっていた。

そのままだと仕事もできないため、僅か3ヶ月で退職することとなる。

決定的な原因がわからず、人生で初めての大きな挫折の経験を味わうことになる。

 

2006年ワールドカップ本戦

転機

2007年3月に妻と結婚。妻から「本当は何をしたいの?」と聞かれる。

よくよく考えてみると、周囲からは期待されていた反面、本当はそこまで先生になりたくない、という気持があることに気付かされた。

ハネムーンの行き先は、ホッケーで世界一の国、オーストラリアのパースだった。ちょど現地でオーストラリア最高峰のホッケーの試合があり、見に行くことに。
(今思えば、妻は現地でホッケーの試合があることを知っていたのかもしれない。)

そこで垣間見た一流のプレーの数々。体が武者震いする。

(自分はここで何をやっているのだ?)

試合が終わり、ちょうど知り合いのオーストラリア人プレイヤーがいたので、

「どうしたらオランダでプレーできるの?」

と聞いてみた。

すると気軽な感じで回答が返ってくる。

「チームに連絡取ったらいいよ!」

この会話により、飛田のスィッチが完全に切り替わった。

ハネムーンから日本に戻り、すぐにヨーロッパ中のプロチームにメールを送りまくった。

また、世界一有名なオランダのホッケーサイトの管理人に連絡を取ってみたりもした。

1部リーグのチームはなかなか応じれくれなかった。

すると、なんとベルギーの競合チーム、「ロイヤルアントワープ」から声がかかった。

実はオーストラリア時代のチームメイトがそこにいて、飛田のことを推薦してくれたようだった。

そして2007年8月にプロテストを受け、見事合格を果たすことができた。

ハネムーンにて

ベルギーでの試練と栄光

期待の外国人選手としてチームに迎え入れられるも、最初の3試合は無得点。すると一気に周囲の目が冷たくなった。

チームのキャプテンに罵声を浴びせられもした。この時飛田は、日本でのプレー時代の自分の行動を振り返ることに。

思えば、自分も試合になると熱くなり、チームメイトに罵声を浴びせたこともあったな。

30歳になってようやく当時のチームメイトの気持も理解できた。

(このままではいけない。何のためにベルギーまで来たんだ。)

ロイヤルアントワープチーム集合写真
(飛田は後列右から4番目)

2007年ユーロホッケーリーグにて

飛田はチームの練習が終わった後もコツコツと自主練を続けた。

するとその成果があり、次の試合でいきなりハットトリックを達成。

さらに快進撃は続き、4試合連続でのハットトリック達成となり、最初のシーズンでは合計21得点と獲得。

飛田がこの経験から学んだことは、自分がチームから何を期待されているのかを理解し、自分の実力を示すことの大切さだった。

実力を示すことができた飛田には、メディアからも多数の称賛の声が寄せられた。

地元テレビ局から取材を受ける

ニュースメディアにも取り上げられる

17歳のOlivier Kleynjansは、Braxgataで最初のチームに所属している2人のベルギーの18歳以下代表チームの1人です。

彼は飛田尚彦を称賛し、クラブへの彼の重要性を強調します。 「そのようなプレーヤーとフィールドにいることは恐ろしいことです」とKleynjansは言います。

「彼は間違いなく私が今までプレイした中で最高のプレーヤーです。

彼の存在で誰もが上手にプレーすることができる、特別なモチベーションが湧いてきます。

彼は実際にはクラブにとって信じられないほどクレイジーな資産です。 

「もちろん私は野心的です、そして、最も重要なことはとことん楽しむことです」と彼は結論付けています。

日本への帰国

プレーで結果を出すことと、チームに残れるかどうかはまた別問題。
特に外国人選手にとっては、バックグラウンドが無い状態で家族を連れて現地でプレーをしているため、ある程度のサポートが必要となる。
ヨーロッパでの2つ目のチームでの契約更新時に、契約条件について折り合いがつかず、チームを去ることになった。

(妥協してまで、チームに残るつもりはない。)

飛田の意思は固かった。
日本人初となるホッケーのプロ選手となることができ、ホッケーの本場ヨーロッパで実績を残すこともできた。

ここで1つの区切りをつける時が来たのかもしれない。
日本への帰国を決意することにした。

Braxgata2シーズン目

新たな挑戦

日本に戻った後、何をしようか?
このままホッケー界に残っていれば、自分の立場は約束されているのかもしれない。

でも日本にはプロチームは無い。
大学の教員をやりたいわけでもない。
昔のチームメイト達は普通にサラリーマンをやっていたり、教育機関の教員をやっていたりするけれど、自分にはしっくり来ない。
体育の教師である父の後を継ぎたいわけでもない。
学閥などの垣根を取り払った世界で何かをしてみたい、そんな気持だった。

様々と検討した結果、ビジネスの世界で戦ってみようという結論に達した。

この世界であれば学閥といった垣根を気にせずに、自分の経験を広めていくことができる。

ヨーロッパ時代に他の選手が当たり前のように自分のビジネスを持っていたという点にも影響されている。

スポーツの世界で結果を残すことができたのだから、きっとビジネスの世界でも結果を残すことができるに違いない。

飛田の新たなるチャレンジが始まった。

高校サッカー部&野球部へのマインドセットセミナー

私の理念

世界で戦って得られた知見をもとに、日本ホッケー界にとどまらず、日本のプロスポーツ界、ビジネス界に広く貢献していきます。

私の使命

世界の第一線で戦い、勝利をした経験をもとに、トップを勝ち取ることができる人を1人でも多く育成することを使命としています。

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